100年後の『雨ニモマケズ』
宮沢賢治といえば日本を代表する詩人かつ童話作家。特に有名なのが『雨ニモマケズ』。良い詩です。
時代を超越した不朽の名作ではありますが、100年後にはこの詩、印象がまるで変わっている気も……。
100年後の『雨ニモマケズ』
まず100年後の地球となると、異常気象が更に深刻化する可能性がある。豪雨豪雪、台風、大寒波が次々と起こり、しかも夏には気温が40度を超えることもザラ……
そんな気象になった未来の日本に住んでいるつもりで、冒頭を読んでみてほしい。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
めちゃくちゃ体強いな。
未来の地球、「雨にも風にも雪にも夏の暑さにも負けない」ために必要な丈夫さが桁違いの可能性ある。
単に体力があって体調を崩しにくいだけでなく、
- 災害レベルの気象を乗り切る対応力
- 寒さ暑さに負けない屈強な自律神経
- バテないための的確な体調管理
なども必要とされそうである。
そんな状況の人たちが詩を読んだとき、彼らは何を感じるだろうか。
厳しい気象に負けず、自然とともに生きたいという切実なメッセージが現代人以上に刺さるかもしれないし、
反対に「気象はもはや個人の丈夫さで乗り越えられるものじゃないから、ぴんとこないな」と思われるかもしれない。
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
これはいいですね。ここは普通に100年後も変わらない人々の願いなのでは?
いやでも100年後やからな。アンガーマネジメント研究がめちゃめちゃ発達した結果、ほとんどの人々が感情に振り回されない世の中が実現されてるかもしれない。
投薬や電気治療で脳にはたらきかけたり、心理療法や自助グループなどを駆使して今より感情と上手く付き合えるようになってて、「昔の人は欲や怒りに悩んでたんだな~」と無邪気に思ってるかも。
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
ここはもう現在でもちょっと思いません?
米めちゃめちゃ食うしおかず少ないなって。
PFCバランス*1どうなってるんよ。ボディビルダーが聞いたら倒れるやつ。
いやもちろん、その感想しかないわけじゃない。
「飢えることなくごはんが食べられて、でも贅沢することもなく、日々の糧を自分で得て、しっかりと働くためにしっかりと食べる」
その希望を端的に表すものが玄米と味噌と少しの野菜なのだろうし、それはまさに、生活の中の祈りだ。
その質実剛健な価値観は今の時代にも……むしろ昔より今のほうが必要とされてるのかもしれない。
とはいえこういう感想は詩を噛み締めてたらだんだん分かってくる甘みであって、
やっぱりファーストインプレッションは米多っおかず少なっになってしまうな……。
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
こことてもいいですね……
ずっと先も、この希望を抱く人はいなくならないと思う。ていうかいなくならないでほしい。
100年後の人類はまだ、完全なる無私の精神も完全なる理解と記憶も実現してないはず。だからせめて、諦めずに追い求めててほしい。
人類全員マキャベリストで開き直ってる近未来とか、絶対いやなので……
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
山林の地価とか登記、100年後はどうなってるんだろう。さすがに全く知識がないので想像つかない。
現在ではキャンプブームの影響もあり、山を買って設備投資する人が増えてるらしいですね。山林への回帰がこのまま続いていけば、100年後には「イケてるお金持ちはみんな山や林を持ってる」みたいな状況になってるかもしれない。
いやでもそうなると、詩のイメージがちょっとブレちゃうおそれがあるな。ほら現在の私たちにとって、宮沢賢治が「軽井沢に住みたい」って言ってたらそれはなんか嫌じゃないですか。ほんのりとお金のにおいがするから。
未来、気になるな。
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
問題を解決する手段や知恵を持ってはいないけれど、常に他の人を気にかけ、どこへでも駆けつける。この人は、そばにいてくれることの価値、ただ寄り添ってくれることの大事さを知っている。
そういうあいまいでやわらかいケアは、情報技術が発達した未来においてよりいっそう重要度を増すのではなかろうか。
北の件だけ若干Twitterを彷彿とさせるな。
いやTwitterのは立場弱い人が強い人に抗議してるときだけ「つまらないからやめろ」って出てくるイメージだから、宮沢賢治の理想とは全然違うと思うが……
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
気象が牙を剥いても何もできず、ただただ困り果てる姿が『なりたい自分』として読み込まれてるのめちゃめちゃ深いな。
「栗山千明率いる謎の軍勢に故郷の村を焼き払われたい」みたいなやつですか? 違うか。
前段の東西南北は「子どもの病気を治してやることはできなくても、そばで看病することはできる」というささやかな能力の肯定だったんですけど、
ここで描かれてるのは「自然現象に関しては起きちゃったらマジでどうしようもない」という無力さの是認。
その背景にあるのは自然に対する畏怖の念です。
もし100年後の国語教科書に『雨ニモマケズ』が載ってたら、この部分の授業めちゃめちゃ面白いことになると思います。
なぜなら人類がちゃんとしていれば、次の100年間はおそらく人類が気象・環境問題の解決に取り組み続けた苦闘の100年になってるはずだから。
自然の脅威を理解するからこそ、対処に苦慮してきたはずの未来社会。自然の恐ろしさを知るからこそ無抵抗にひれ伏す賢治の詩は、未来に育った子どもたちにどう見え、どう読まれるのか。
そういうのを考えると、やっぱり国語の授業って面白かったな。
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
でくのぼうって絶妙なチョイスですよね。意味的には完全に悪口ですけど*2、ことばのニュアンスがやわらかくて、それほどきつく聞こえない。
誉められも迷惑がられもせず、ふわっと「おるな~」ぐらいの空気感のなかで生活している。
そういうものになりたいという。
現代人の宿痾「何者かになりたい」欲求とは正反対の望みだ。
何者かにならなくていい、でもなく、何者にもなりたくない、でもなく。何者でもないものになりたい、という。
ある種これも、プライドレスな生き方だ。
でもそれってすごく、そばにいて気を抜いてられる存在かも。みたいなことを考えた。
100年後でも、こういう人は必要とされ、必要なくても受け入れられているだろうか。そして、こういう人になりたいと、共感する人はまだいるだろうか。
そうだといいなと思う。