蟹を茹でる

カニ @uminosachi_uni の雑記ブログです。好きなもののこと何でも。

世界中の子供たちが一度に笑ったら、

世界中の子供たちが一度に笑ったら、

めちゃめちゃ怖くないですか?
普通にめちゃめちゃ怖いよ。絶対。


俺たちは緊急地震速報にすらビビる

いやね、今朝の職場でのできごとなんですけど。
千葉県沖で地震が起きたらしくて、職場にいる人ほぼ全員の携帯が一斉に鳴り響いたんですよ。
緊急地震速報の音って独特なうえにけっこう大音量だから、ビビりました。

それで思い知ったたんですけど、私たちは近くの携帯電話が一斉にファンファン言い出すだけでもだいぶしっかりビビるわけです。
ツイッターのTLでも、「こわい!」「びっくりした」とのつぶやきをたくさん見かけました。


俺たちはどう考えても世界中の子どもたちにビビる

翻って考えると、『世界中のこどもたちが』の状況って実はハチャメチャに怖くないですか?

歌詞全文↓
https://www.uta-net.com/song/165073/



何がって、もう前提がすごい。
パッと見は明るく朗らかな歌詞だけど、実はかなりトリッキーな前提条件を提示してくる。

世界中のこどもたちが いちどに笑ったら

いやその状況、リアルに想像してみてほしい。
教室で別々のグループに分かれて遊んでたこどもたちが、一斉に笑い出すところ。
ペンを動かす音だけが聞こえる静かな塾の自習室で、勉強に集中してたこどもたちが突如爆笑するところ。
反抗期真っ盛りで不機嫌そうな顔をしてた我が子が、理由もなく急に笑顔満開になるところ。

こんなん本当に起こったら世界中の大人たちがビビり散らかすからな。



しかも「世界中のこどもたち」がいちどに笑ってるってことは、地球が丸い以上、
およそ3分の1は寝てるとき突然笑い始めてることになるんですよね。

考えてもみてくださいよ。
保育園でお昼寝してるこどもたちを見守りつつ作業してたら、突然こどもたち全員が同時に笑い出したときの、保育士さんの気持ち。

「えっ!? 何これ!?」ってなりますよきっと。
こどもの対応に慣れてるプロの保育士さんでも、さすがにびっくりすると思う。



もっとビビるに違いないのは、夜こどもたちと同じ部屋で寝てる家族。

夜中にいきなり元カノからLINE来ただけで「どうしたの?」ってなるのが現代人なのに、
夜中にいきなり熟睡してたこどもが笑い始めたら驚いて飛び起きますよ。

それでも、ひとりっ子なら「くすぐられる夢でも見たのかな~」で納得できそうですけど、大家族になってくるともうヤバい。
「周囲の人が突如爆笑する」現象、たぶん基本的にシンクロ人数が多ければ多いほど怖い。


空と海が笑ったら俺たちもう終わりちゃうか?

さらにビビるのは、この歌詞の続き。

(世界中のこどもたちがいちどに笑ったら)
空も笑うだろう ラララ 海も笑うだろう

それもう天変地異やろ。

世界中のあまねくこどもたちが突如笑い始め、やがて空が笑い、海も笑い始める。
こんなん本当に起こったら世界中の大人たち「あっ、地球終わったな」と思うからな。

ンジャメナすき

カニです。


ンジャメナって地名知ってる?」
「知らん。どこ?」
「チャドの首都」
「チャド、どこ?」

ンジャメナすき


そんな感じで、今回はンジャメナの話です。
ちなみにチャドはアフリカの国(知らなくても問題ありません)。

とは言え、都市の文化事情について語るわけではありません。
ンジャメナ」というワードが、ただただ言葉として好きなので、その理由を書きます。

なのでどんな街なのかはまだ全然知りません(人口100万人超で、物価がわりと高いらしい)。

ンジャメナって言葉エモいよな


ンジャメナの何が良いって、まず「ン」から始まるところ。

日本語にはない形態の単語。初めて知ったときには「こんなのありかよ」と興奮すら覚えた。
人はこうして、ささやかな出会いから言語文化の違いを学びとっていくのだ。

自分の手が届く範囲の文化しか知らなかった子供の私にとって、アフリカンな空気を感じさせる単語「ンジャメナ」が魅力的に響いたのも当然である。



しかも「ん」から始まるという日本語にはあり得ない性質上、ンジャメナは日本語の遊び「しりとり」においてまるでジョーカーのような立ち位置にある。

おそらく日本においてはチャドの首都として言及されるより、しりとりの文脈で話題に上ることのほうが明らかに多い単語、それがンジャメナである。たぶん。

小学生時代、ひとりくらいはこんな奴がいなかっただろうか。
しりとりにおける負けを、俺は「ん」で始まる言葉を知っている、という知識で覆そうとしてくるチャレンジャーが。

「はい、お前『ん』で終わったから負けー」
「はあ? んから始まる言葉いっぱいあるしな! ンジャメナとか!」

だいたい彼らは社会が得意で、地理に詳しかった気がする。おそらく地理の本を読むなかで、ンジャメナやンゴロンゴロ保全地域といったワードを目にしたのだろう。



それって実は、とても面白い現象なのではなかろうか。

日本においてンジャメナは、都市としてそれほど有名ではないはずだ。

にも関わらず、その名がしりとりの特性と奇跡的に噛み合っていたために、言葉としては小学生でも知っていたりする。



あなたがンジャメナをご存知なら、初めてンジャメナという言葉を知ったときの、あのワクワクを思い出してほしい。

地理が得意な同級生から誇らしげに教えられたときの、新鮮な驚きを。そして同時に、裏をかかれたようで少しだけ悔しかったあの気持ちを。

聞いた話を早速他人に自慢したいがために、わざとンで終わる単語を得意げに口にしてみたときの、あの一歩踏み出すドキドキを。
あの、小賢しくも純真だった子ども時代を。



ともすると、社会の授業で地図帳を見てチャドの存在を知る前に、ンジャメナのことだけを知っていた人もいるかもしれない。

そのアンバランスさ、そこはかとなくセクシーではないだろうか。

 

日本語話者にとっては、そういった理由でちょっと印象深い(かもしれない)言葉「ンジャメナ」。

だが、もしかすると、このエピソードはチャドの人々にとっても印象深いかもしれない。
だって、立場を逆にして考えてみてほしい。



日本から遠く離れた国で、
日本のことを全く知らない子どもたちが行う、
ルールもわからない異国の言葉遊びのなかで、

「東京」が、
ゲームの展開を180度変えるキラーフレーズとして大活躍していたら。



そんなの、良いに決まっている。

だから、ンジャメナすき。

持てる者、モテざる者

ショートショートです。





渡辺エミは学校で一番のモテ女に違いなかった。涼やかな顔立ち、知性を感じさせるまなざし、凛と伸びた背筋を、女の子たちは自分たちの日常と切り離された「尊いもの」として見つめていたし、ぼくたち非モテも、羨みをもって遠くから見つめていた。

渡辺エミは、これまた学校でモテモテの伊達男とも交際していた。持てる者はさらに与えられ、持たざる者は奪われるのが世の常。
だけど、数日前に彼女は伊達男を振ったらしい。さすが学校一のモテ女、ハイスペックな物件でさえ、気に入らなければ自分から切り捨てるのか。

渡辺エミは見た目もよくて笑顔がかわいいが、どことなく人を寄せ付けない雰囲気があった。気が強くて自分の意見を主張することも原因だが、最大の要因は他にある。

渡辺エミは、ぼくみたいな非モテにもよく話しかけた。

よく、クラスの誰とでも分け隔てなく話せる人気者というのがいる。だがあれは、あくまで優しくてコミュ力の高いやつが、クラスの空気をよくするためにネクラにも話しかけてくれる、一種のパフォーマンスなのだ。

渡辺エミはそういうのとは違っていた。話したいから話すのだ。当たり前のように。そこにはコミュ力の高いやつが提供してくれる、盛り上げもフォローも相手任せのサービスみたいな会話はない。意気投合して熱を帯びる会話もあれば、最初から最後までずっと気まずいだけのやりとりもあった。後者の代表例がぼくだ。

喧嘩になることこそなかったが、渡辺エミにやり込められて根に持っているやつもいる。自分に体を寄せて話しかけてきた美人にさっくり論破されたら、期待したぶん余計に美人を憎む人間だっている。

「よかったらあなたの意見を聞かせてほしい」
渡辺エミは、ぼくの席の前に立って言った。ふつう渡辺エミほどクラスで一目置かれてるやつが、みんなの前でこういうことをわざわざ言うのは、「今からおまえを槍玉に上げます」という意思表示だ。

渡辺エミのたちの悪いところは、そういうことを、本当に興味だけで聞くところだ。ちょっとはぼくみたいな非モテの気持ちも考えてほしい。まあ渡辺エミみたいな恵まれたモテ女にはわからないんだろうけど。

渡辺エミは集まる視線に目をやると、慌てたように両手を振った。
「ごめん、こんな空気にするつもりじゃなかった!」
渡辺エミが言うと、クラスのやつらはほっとしたように笑って、そのままぼくの意見は聞かれることなく流れていった。
結局ぼくみたいなやつの意見なんて、渡辺エミにとってもクラスのやつらにとっても、どうでもいいのだろう。



放課後ぼくは真っ先に教室を出る。一人暮らしの家はぼくが一番自由になれる場所だ。僕を癒してくれるものがいくらでもある。イケメンと体育会系が我が物顔で支配するこんな教室とは、比べものにならない居心地。

校門を出たところで、渡辺エミが後ろからぼくを呼び止めた。
「さっきはごめんなさい。あまり空気を読むのが得意じゃなくて」
渡辺エミはそのままぼくのとなりに並んで歩く。
渡辺エミほどの強者だと、空気を読む必要なんてないのだろう。ぼくみたいな非モテが空気を読めないとなじられるのに、美人が空気を読めないとかわいいってことになるのだ。

「別に」と言う声が若干うわずって、ぼくはみじめな気持ちになる。
渡辺エミがぼくにとりついてくるのは、あの時のぼくの発言が気にくわなかったからだろう。

クラスのボスの体育会系が言った、小山みたいな陰キャは女とまともに話したこともないんだぞ、という発言に、渡辺エミが反撃したときだ。
「モテるから上とか、異性と仲良くないから下とかで、勝手に人を測るのはダサくない?」
渡辺エミはたいそうな正論をお言いになって、それを聞いたぼくがぼそっと呟いたやっかみも聞き逃さなかった。

思い出したらだんだん腹が立ってきた。なんでだよぼくは独り言を口にしただけだし、それにぼくが言ったことは真実だろ。ぜったいにぼくは謝らない。
「人気者の渡辺さんはぼくみたいなやつが反論したのが気に入らなかったんでしょうけど? 実際口では『モテるやつとモテないやつにどっちが上とかない』と綺麗事言ってたところで美人JK様が非モテには見向きもせずにモテイケメンとしか付き合わないのは紛れもない事実だと思いますが?」
我ながらすごい肺活量と滑舌だと思った。見た目さえよければアナウンサーにもなれたかもしれない。

渡辺エミは苦笑いを抑えようとしながら、うーんと唸る。
「モテとは関係なく人々が対等に扱われる社会であるべきって考えと、恋愛上の個人の好みは別だと思うけど……」

「ほらね、結局口では平等とか言っときながら、非モテよりモテイケメンを選ぶわけです。その時点で渡辺さんはモテと非モテを平等に扱えてないわけですよ、平等と言うなら渡辺さんみたいな美人JKは非モテと付き合って、持たざる者にモテを分配すべきだと思いませんか?」
もうここまできたらヤケだった。渡辺エミにぼくの思ってることをぜんぶ言ってやる。

渡辺エミは、しかしぼくの意見に納得したりはしない。ぼくみたいな非モテと付き合うのはきっと嫌なのだ。
「モテなくても対等だって私は言いたいんだけど……小山くんのアイデアだと結局、モテない人に女性をあてがって平等にしようって言ってるから、女性と付き合えないと対等になれないって思想を余計に強化してしまうと思う」

渡辺エミはぼくみたいなやつの言葉で考えを曲げない。曲げる必要がないからだ。
だけど、ぼくだって渡辺エミが言ってるからって、ぼくの主張を曲げたりはしないのだ。

「でも、小山くんのモテを分配するってアイデアは面白いかも。私は基本的に再分配には賛成だし、そこをふたりで考えてみない?」
意見を曲げる必要のない強者が、突然そんなことを言い出す。なんだ!? もしかしてぼくをそうやって丸め込んで、意見を認めさせるつもりか?

「そ、それだと渡辺さんが非モテと付き合うってことになっちゃうけど?」
ぼくは最大限の警戒心をもって対抗するが、渡辺エミは至って落ち着き払ったまま反論する。
「ううん、そこだけは論理的に納得がいってない」

渡辺エミは身振り手振りを加えながら、例え話を始める。
「お金がないことに困っている人と、再分配に賛成しているお金持ちがいるとします」
「自分が持てる者だということは認めるんですね……」
渡辺エミは、謙遜したら余計に嫌味でしょう、とぼくの指摘に取り合わなかった。

「ここで困っている人が、『再分配に賛成するなら、ぼくを好きになって性愛関係を結ぶべきだ』と主張するのは筋が通らないと思う。恋愛対象は個人の自由で選ぶべきって理念的な理由もあるけど……
「一番の理由は、お金持ちでも体はひとつしかないから。
「再分配って基本的には、たくさん持つ者からあまり持たない者に富を移して、貧富の差を減らすことを言うよね。だったらお金持ちが困っている人に再分配として差し出すべきなのは、たったひとつの自分の肉体じゃなく、たくさん持っているお金ということにならないかな」

渡辺エミはぼくの顔色を伺うように見上げた。
最後まで納得しなかったらまかり間違って付き合うことにならないかな、と脳裏によぎらなかったわけではないが、おそらく逃げられるだけだろう。渡辺エミを泣かせたら、クラスのボスの体育会系がぼくに何をするかわからない。あいつは渡辺エミの点数を稼ぎたいのだ。

そもそもボスが今日ぼくの非モテをあげつらったのだって、渡辺エミがあいつに「小山くんて頭の回転が早いから、予想外の状況にもうまく適応できそう」なんて言うからぼくが目の敵にされたのだ。ぜんぶ渡辺エミのせいだ。

とはいえぼくは感情で意見を曲げるやつなんかではないので、論理的に納得できる意見なら聞く。
「つまり? 持てる者たる渡辺さんは、ぼくに何を分配しようとしてくれるのかな?」

渡辺エミは「んー?」と言いながら、いたずらっぽく口角を上げて首をかしげた。見た目は本当にかわいい。もっと控えめで従順なら100点なのに。

「モテ」
「モテ?」

「小山くんは私のモテを羨ましく思ってくれてて、だから『非モテにも分配すべきだ』って考えたと仮定するね。」
モテを自覚している他人から、はっきり非モテと言われるのは案外グサッとくるものがある。
「だとしたら、私がその思いに報いて分配できるのは、やっぱりたったひとつの自分の体じゃなくて、たくさんあるモテだと思う」
モテがたくさん、他人に分けられるほどあるだなんて、一度体験してみたいものだ。まったく。

「そんなこと言ったって、どうやったらモテを分配なんてできるんだ?」
なんだかこの場限りで言いくるめられて、なにひとつもらえない気がすごくする。

渡辺エミはこっちの気も知らずに楽しそうな笑顔だ。むかつくほどかわいい。
「ちょっといいこと思いついたんだ。小山くんの適応力を見込んで、ぴったりのプレゼントしてあげる」
「本当か?」

「小山くんの知ってる渡辺エミは、その気もない冗談でこんな約束しそう?」
そんな風に聞かれると言い返せない。渡辺エミは約束したことは必ず守るタイプの人間だということは、たぶんクラスのみんな感じている。

「それで……いきなりで悪いんだけど、贈り物したいから住所教えてもらってもいい?」





結局ぼくは渡辺エミに住所を教えた。期待しているとは認めたくないが、渡辺エミが何を贈ってくるのか、興味が抑えられなかった。
だが、一応ぼくが連絡先を交換しておくかと申し出たところ、「それはまた今度でいいや」と断られたのは納得いっていない。

「プレゼントが届くまでのお楽しみだから!」
渡辺エミは別れの瞬間まで嬉しそうに帰っていった。

数日後、ぼくが家に帰ると、玄関前に大きな段ボールが置いてあった。宅配便にしてはあまりに不審すぎるそれにおそるおそる近づくと、
「小山くんへ。この前言ったプレゼントが用意できました! 渡辺」
と、整った字の貼り紙がしてあるではないか。渡辺エミめ、なんちゅう荷物になるものを送ってきたんだ。

ぼくはかがみこんで、段ボールを持ち上げ……
「重っ!」
体積に見合うだけの重量がある箱だ。いったい何をどんだけ詰めたんだ?
仕方なく持ち上げるのはあきらめ、斜めに傾けて底の一辺を引きずりながら家の中まで運ぶ。

疲れて息を荒らげながら、段ボールの厳重な梱包を解く。どんだけガムテープを巻き付けたんだ?
これでつまんないものしか入っていなかったら文句言ってやる。クラスのボスに目をつけられるかもしれないが、にしたってこれはやりすぎな渡辺エミが悪いのだ。

ようやく箱の上部が開けられるようになった。
ぼくは中腰のまま蓋を開いて、段ボールの中を覗き込む。

伊達男とクラスのボスがガムテープで口をふさがれ、体をぐるぐる巻きにされた状態で入っていた。

KingGnu『The hole』についての推し語りを聴いた

KingGnu『The hole』についての語りを聴いた

前にTwitterで言っていた「オタクの推し語りをひたすら聴いてメモを取り、それを言葉でまとめて後日送るサービス(仮称:出張エモソムリエ)」ですが、なんと希望者がいらっしゃった(!)のでお会いしてきました。

※なお、以下の内容は依頼者の公開許可を取った上で掲載しています。


実際会ってきいてみた

3月、場所は都内のおしゃれなカフェ。
依頼者さま(匿名希望)のご提案で、まずはいっしょにお昼ご飯(ごちそうになりました)。
楽しく雑談しながらお腹が満たされたことで、1対1でも気軽に親密に話しやすい雰囲気になれました。
こういった気遣いをさらっとしてくださったの、とってもありがたい……

そしていよいよ本題。
依頼内容は、「KingGnuの『The hole』という曲に関して、煮詰めまくった感情を抱いているので話を聴いてほしい」というもの。


煮詰めまくった感情、という表現がすごく素敵……
誰かに話したいけどリアルの友達に聴いてもらうのは気がひけるし、
同ジャンルでわいわい盛り上がれるタイプの話題ともまた違う。
そういう熱量のこもった語りを一緒に共有したかったから、「オタクの推し語りをひたすら聴いて言語化するサービス」を始めようと思ったので。

以下、
依頼者の煮詰めまくった、でも普遍的で真に迫った感情のお話を、カニの感じたことを交えつつ書いていきます。


『The hole』


King Gnu The hole


曲への第一印象

依頼者(以下Aさんとする)、今でこそ『The hole』はこの方にとって特別な曲だけど、初めて歌詞を見たときは好印象ではなかったとのこと。
むしろ「苦手なタイプの人が来た……」と引くような気持ちだったらしい。

全然気が合わないタイプ? と聞いたところむしろ逆で、同族嫌悪に近い感情だったそうだ。
この歌詞の「僕」が抱える心性や考え方には身に覚えがあり、「こいつとは長い付き合いだ……」と感じたという。



自分に当てはまるからこそ受け入れがたかったり、心がざわついて落ち着かない気持ちにさせられてしまう歌詞って確かにある気がする。
それだけ自分の心と強く共振する歌詞でもあるから、不穏な気持ちになるのに気になって仕方ないやつだ……

その複雑なアンビバレントな気持ちを、「こいつとは長い付き合いだ……」って表現するとこめちゃくちゃ良いですね。愛じゃん……。
すぐには受け入れがたい同族嫌悪の感情を、ずっと付き合ってきた自分の一部として認めてるのが人としてほんとうに良い。
こういう感情の機微について話してくれたのが嬉しい。


歌詞の展開にみる「僕」の世界認識

Aさんが最初に言及したのが、歌詞全体の運び(展開)。

1番の歌い出しは「世界がいつもより穏やかに見える日は 自分の心模様を見ているのだろう」と始まり、非常にのどかで穏やかな景色を描く。
しかし途中からその雰囲気が一変。世界は非常に不確かで不安定な、恐ろしいものとなる。


歌詞のなかでは、僕とあなたの二者関係が美しく尊いものとして描かれる。
一方でふたりを取り巻く世界は、傷ついたふたりをおびやかす恐ろしい存在だ。

キーとなるのがサビに繰り返し表れる「僕が傷口になるよ」とのフレーズ。

「僕」自身が傷つき、脆く、世界を恐れているにもかかわらず、彼はもっと傷ついたあなたを守ろうとする。
見えてくるのは、「僕」があなたに被さってあなたを恐ろしい世界から覆い隠し、代わりに「僕」が傷を受けるイメージだ。


この「傷口になる」という表現、言われてみれば「僕」の傷つきと弱さを象徴しているかのようだ。

彼は包帯や傷薬になってあなたを手当てしようとするのでも、盾や壁になって世界による侵害を跳ね返そうとするのでもない。
世界からおびやかされたとき、彼は傷をケアする優れた手立ても、傷つけられない強さも持ち合わせていない。

ただ、あなたの穴をふさぐように覆い隠し、代わりに世界に傷つけられることであなたを守ろうとしている。


しかもここに、歌い出しのフレーズが響いてくる。
世界が穏やかに見える日は自分の心模様を見ているのなら、世界が恐ろしく見える日も、同様に自分の心模様を見ているはずだ。

彼は世界が恐ろしく侵害的に見えるほどに心をおびやかされていて、世界に抵抗できないほど脆くなっている。
咀嚼すればするほど、とんでもなく業の深い歌詞だ……


歌詞にみる「僕」の心性

Aさんの感情を最も強く刺激したのが、曲に表される「僕」の心性。

自分も傷ついているのに(傷ついているからこそ)、自分よりもっと傷ついた相手を救いたくなる。
傷ついた相手を守り、手をさしのべることで、相手を救える自分は特別だと感じてカタルシスを得られる。

苦しみや傷つきを打ち明けてきた相手に、「(他の人には無理でも)自分ならこの人を救える、自分ならこの人を見捨てたりはしない」という気持ちをかきたてられる。

相手を必死に守ろうとしているようで実は、相手が本当に守られ癒されているかは二の次。
手をさしのべることそのものに、そして相手に感謝されることに、実は自分が救われている。


ここまで読んで、あなたにも思い当たるところはなかっただろうか。
正直、自分にはめちゃくちゃ突き刺さった。身に覚えだらけだ……。

曲の壮大さで綺麗にパッケージされてはいるけれど、『The hole』の歌詞が示すのはそういった生々しい心のうごめき。
誰もが持つ弱くて自分勝手な心性を、リアルに重厚に描いている。だから、この曲は傷ついた人の心を揺さぶる。
Aさんの心の深くまで迫る曲になったのも、そのためだと思う。


曲に引き出された記憶

Aさんの周りにも、そういった心性の持ち主が多かったそうだ。
中には「救う」行為が上手な人もいれば、逆に下手に手を出して状況を困難にする人もいたという。

そして他ならぬAさんが、自身の「救いたい」気持ちが元で大変な思いをしたこともあった。

※Aさんはそれらの思い出についても語ってくれたが、非常にプライベートな話なのでここでは割愛する



興味深かったのは語りの内容だけでなく、語ってくれた理由。それはAさんの音楽鑑賞のあり方に関係する。

Aさんは音楽を楽しみ歌詞を味わうとき、曲や歌詞そのものを細かく分析したり考察するタイプではないそうだ。

むしろ、曲を聴いて引き出される自身の記憶や感情を、曲を通して味わう鑑賞方法をとるという。
だからAさんは、曲によって引き出されたそれらのエピソードを語ってくれた。

Aさんにとってはそれらの記憶もまた、『The hole』に抱く感情の一大切な部分なのだと思う。


歌詞の分析と考察が大好きな私とは全く異なるたしなみ方である。
そこには私が想像しえなかった、深くて豊かな鑑賞の世界があった。

自分とは違う鑑賞方法の人の考えを、ここまでじっくり聴ける機会ってなかなかない。
新しい発見に満ちた、とても刺激的な時間だった。



また、それだけ鑑賞方法が違うにもかかわらず、Aさんが語りの相手としてカニを選んでくれたのも興味深い。

Aさんによると、「カニブログを読んでいて、この人なら私の話を『こいつ何言うてんねん』と思わずに聴いてくれるだろうなと感じたから」とのこと。

確かに、この方の話は整然として筋が通っていたし、自身の感情を大切に丁寧に表してくれていたので、プライベートなエピソードでも受け止めやすかった。
もちろん「何言うてんねん」と思う瞬間は全くなかった。

これらは明らかにAさんの美徳によるところが大きいが、もしかしたらふたりの相性にも助けられていたかも。

鑑賞方法や考える内容は違っていても、考え方の核や、大事にしている信念が近かったのかもしれない。


その心性を認めて愛する

Aさんが対人支援職のプロとして特に強調されていたのは、
「相手を救うことで自分を特別だと感じられる心性」は誰でも持ちうるものだということ。

そして、この感情は決して悪いものではないということ。



客観的な人だろうと謙虚な人だろうと、この心性は多かれ少なかれ、いつでも、誰でもが持ち合わせているものだ。

だからといってこれは無くすべきものでも、全く出さないようにすべきものでもない。

なぜならこの心性は「人を助けたい」「困っている人を見捨てられない」という人間の善意とも密接に繋がっているから。
人が人とよい関係を築いていくためには、むしろ大切な機能ですらある。


重要なのは、そんな心性が自分の中にあることをきちんと自覚して、状況に合わせて必要な分だけ出せるようにすること。
認めまいと自分から切り離したり、完全になくしてしまおうとするとかえってよくない。

「自分ならこの人を救える」と思ってしまうこの心性は、自分の愛すべき一バカな面として、認めて愛してケアしていくしかないのだ。



Aさんが話してくれたなかで、印象的な言葉がある。
「この曲が聴けるようになってよかった。自分の心性を受け止められた(ということだから)。……ときどき切り離したくはなるけど」

曲を通して自分の心性に、そして葛藤に向き合っていける。
すごく素敵な鑑賞方法だし、素敵な人間性だと感じた。そんな話を聴けてよかった。


おわりに

「オタクの推し語りをじっくり聴いてメモを取り、それを言葉でまとめて後日送るサービス」
ご希望があれば今後もやっていきたいなと考えています。

今のところ、交通費+場所代(例えばサイゼリヤで話聞く場合、そのお会計)で承ることをイメージしています。

ご興味あればTwitterやブログコメントで気軽にご相談いただければと思います。


余談:プロの知的誠実さめっちゃ好き

ブログを書くにあたってAさんとご相談したことで、「さすがプロ~!」と思ったエピソードがあったので自慢します。


Aさんの語りの文字起こしを送り、内容の誤りやブログを書く上での注意点について相談していたときのこと。

元々の語りではとある専門用語(対人支援に関連する用語)が使われていたのですが、
「一般の方が専門用語の解説を読んで、伝えたいことの本質を理解してくれるか」
「その専門用語について検索してたどり着いた人がブログを読んだとき、どういう理解をするか」
を考慮した結果、専門用語を使わずに別の表現に置き換えることにしました。

三者による誤用や誤解を防ぎつつ、私たちが共有した感情の機微をなるべくわかりやすく伝えるための判断です。


正直言うと私だけでは「専門用語使うから、参考図書を調べて解説を引用しよう」くらいの対応までしか思い浮かんでいませんでした。
一般の読み手がどう理解するかまで考えが及ぶところさすがプロ……尊敬しかない。

カニこういう知的誠実さのエピソードめちゃめちゃ大好きなので、気づいたらぜったい自慢したくなってしまう。

ミイラ展に行って、研究者の価値観をかいま見た

国立科学博物館で開催中の『特別展「ミイラ」 永遠の命を求めて』へ行ってきた。
ミイラ展の会期は来年2月24日まで。

世界各地のミイラが展示され、地域ごとの歴史やミイラの成立要因などが詳しく解説されていたり、
自分がミイラになれるフォトスポット(!?)があったりと、見て楽しむに事欠かない内容でした。

ミイラってエジプトで作られたものしか知らなかったけど、手を加えなくても自然にミイラ化することもあるんですね。
あと即身仏は言われて見れば確かにミイラだった。



そして個人的に興味深かったのは、展示から見えた学者たちの価値観。

今回はその話をします。


撮影禁止と死者の尊厳

国立科学博物館は常設展示のほとんどが撮影OKでほんとすごいんですけど、ミイラ展に関しては基本撮影禁止だった。

撮影禁止自体は他の博物館でも珍しくないけど、興味深いのがパンフレットや公式サイトの写真。

https://www.tbs.co.jp/miira2019/
一部のミイラの写真が、シルエットになっている。


これは特別展で販売するグッズでも徹底していた。

ミニチュアミイラガチャなる攻めたグッズもあったけど、ミニチュア化されてるのは布でくるまれて顔の見えないミイラ包みや、骨だけになって顔のわからない装飾頭蓋骨。

(……関係ないけど「ミイラ包み」って名前のインパクトすごくないですか?)

顔や体が見えるミイラは写真やグッズでは公開せず、展示でのみ見せるポリシーのようだった。


普通の博物館だと撮影禁止でも図録や写真は公式グッズとして売ってたりして、
撮影禁止の理由はグッズ販売の売上のためかなとか、撮影者のマナーや所有者との権利問題が原因かなとか思うんだけど、ミイラ展は違う。

明らかに、死者の尊厳に配慮するためだ。


言われてみれば、ミイラも元は生きた人間だったのだ。
いくら昔の人とはいえ、プライバシーを無視して写真をばらまいたり勝手にグッズにするのは、尊厳を侵害する行為かもしれない。

でも一方で、ミイラについて人々が知識を得る機会を提供し、研究を推進し、貴重な史料として後世に残すことは必要だ。学術的な目線から見ればそうだろう。

本草学者と研究の未来

ミイラには、ツタンカーメンのように人工的に作成されたものと、自然環境によってミイラになったものがあるらしい。

中でも今回異彩だったのが、日本の本草学者のミイラ。なんとこの人は、自分でミイラになった人だ。


この人は学問的な探求心からミイラの成立要因を研究し、それを自分で実証してみせた。
遺体の腐敗を防ぐため、死の直前に大量の柿の種子を摂取していたという。
(実際、種子に含まれるタンニンには防腐作用がある)

そして、弟子に対して「機会があれば墓を掘り返す(遺体がミイラ化しているか確認する)ように」と言付けて世を去ったらしい。


エピソードめっちゃ渋いな……。

学問的な探求で、自らの身体を使って賭けに出るのがまずすごい。
胃潰瘍の原因を証明するためにピロリ菌飲んだ人*1は聞いたことあったけど、もはやそのレベルも超えている。


結果を未来の研究者に託していったのもアツい。

結果が明らかになったときには自分はもう亡くなっていて、結果を知ることはできない。
それでも賭けられたのは、まだ見ぬ人々が意志を引き継いでくれると信じていたから。
自分の実証が未来の研究の糧になると信じたから。
自分の理論の正しさを証明したい、強い追究心があったから。


そして、賭けにみごと勝っているのが一番アツい。

彼はもはや結果を知る由もないけれど、実証は成功して理論どおりにミイラになれた。
そのミイラは博物館に保存され研究され展示され、後世の学術研究に貢献している。

死後に理論の正しさを証明されるのは、科学が多くの人の手に引き継がれていくからだ。
未来の人々が、その理論を忘れずに受け継いで、研究し続けてきたからだ。


先行研究を踏まえることを「巨人の肩に乗る」って言うけど、肩に乗ってもらうことは巨人サイドにとっても希望の光なんだなと思った。

学術っていいな。


学術調査と異性愛主義

研究者がこれまで常に格好良い価値観を持ってたかといえば、そんなことはない。
昔の研究者の価値観に、うーんと思うところもあった。


それは、オランダのウェーリンゲメンで発見された2体の湿地遺体。
今回の特別展のパンフレットでも、表紙を飾っている象徴的なミイラだ。

この皮膚だけのミイラ2体は腕を組んだ状態で発掘され、当初は大きい方が男性で小さい方が女性と推定されていた。
そのため、当時は「男女のカップル」と言われていた。

しかし、後に小さい方にもあごひげが見つかり、男性と判明。
残念なことにDNAの保存状態が悪いため、2人がどんな関係だったのか・なぜ一緒に埋葬されたのかは不明だという。


……と、さらっと受け入れてしまいそうになるけど、よくよく考えるとナチュラルに異性愛主義かましてるなと気づいた。

大きい方と小さい方が腕組んでる→男女だ!→男女が腕組んでるからカップルだ!
みたいな短絡的な発想でこのミイラが「ウェーリンゲメンのカップル」って呼ばれてたの、発想が思春期の中学生のそれじゃない?

あと、なんで両方とも男性やと発覚した瞬間「残念ながら2人がどんな関係だったのかは全然わからないですね」って急に冷静になるねん。
さっきまでカップカップルって囃し立てとったやないか。



もちろん、現在の研究者の言ってることに落ち度はない。
DNAの保存状態が悪いから、血縁関係の有無もわからない。2人がどんな関係でなぜ一緒に埋葬されたのか、わからないのは本当だ。

カップルだった可能性もあるけど、それ以外の関係だった可能性もある。
わからないことを不用意に言い切らない姿勢は誠実そのもの。


むしろ、昔「カップル」と呼ばれてたのがちょっと怖いなと思った。
男女だとしてもどんな関係かは何も明らかになっていないのに、男女という理由で何の躊躇もなくカップルだと決めつけられてしまっていた。

考古学・史学系の研究者でさえ悪気のない先入観をさらりとかましてしまう。それが学術的な目線にも大きな影響を及ぼしていて、しかもたぶん当人にはその自覚がない。
内面化してる価値観の怖さだと思う。

そういえばウェーバーも、我々は自分の価値観から完全に自由にはなれない的なこと言ってた。うろ覚えすぎる。

だからこそ、自分の持つ価値観を自覚して、できる限りバイアスが掛からないように注意するのが大事だなと思う。


現在の考古学研究では、昔に比べてセクシャルマイノリティとかジェンダーとか、そういう価値観もアップデートされてるんだろうか。
されてるといいな。


おわりに

とにかく見応えがあって、しかもミイラから各地の死生観や文化まで丁寧に考察されてる興味深い展示だった。
近場で興味のある方はぜひ見に行ってほしい。
まだまだ2月末までやってるみたいだし。
https://www.tbs.co.jp/miira2019/ticket/

しかも音声ガイドが大沢たかおさん。大人気。

あと公式グッズの攻め具合がちょうどよくて、エジプト神のかわいいトートバッグもあれば、ミイラ包みのシュールな巾着袋もあって最高。


博物館めっちゃ楽しいなと思ったので、また別の展示も行ってみたいです。

*1:バリー・マーシャル

神様Discoを踊り、そのヤバさを感じてきた話

神様Discoを踊った話

初めて観たときの畏怖

RADIOFISHの『神様Disco』を初めて生で聴いたのは、2019年のワンマンライブ『NIRVANA』だった。


そこで生歌を聴き、演出を生身で体験し、彼らのダンスを初めて目にしたとき、その振り付けになぜか言い知れぬ恐怖を覚えた。

めちゃくちゃ面白くてキャッチーでポップで、ゲラゲラ笑いながら釘付けになったのに、同時に背筋がぞわぞわしたのだ。


恐怖というよりは、畏怖と呼ぶべき感情かもしれない。


RADIOFISH『NIRVANA』2019 ライブレポートのようなもの - 蟹を茹でるでも、こんな感想を書いていた。

「神様Disco」の頭でDJみたいにスクラッチする振り、激ヤバだった。完全に脳を神様に支配され、精神を神のDiscコレクションの1枚にされスクラッチして遊ばれている、そして人々もそれを喜んで受け入れている、みたいなニュアンスを感じて史上1番ヤバかった。


このヤバさの源泉を、何とか読み解こうとした。

歌詞を見ながら何度も曲を聴いて、振り付けを頭で反芻し、『神様Disco』を理解しようとした。

だが考えても考えても、否、考えれば考えるほど、『神様Disco』はわけがわからなくなっていった。
そういう魔曲なのだ。


もはや私は分析も考察も諦め、「理解の及ばぬ高みにある大きな存在」として『神様Disco』を受け入れるほかなかった。
まあそういう向き合い方もありかな、と思った。


だが、そんな私と『神様Disco』の関係を、大きく転換する出来事があった!
その名も、神様Disco会である!

神様Disco会とは

先日フォロワーに誘われ、RADIOFISHファン有志で『神様Disco』の振りを覚えて踊る会に参加してきた。
オタクの行動力って侮れないな……
(主催者さま、先生、参加者のみなさん誠にありがとうございました)


会ではダンス経験者の方(彼女もRADIOFISHファン)に先生になってもらい、振り付けを頭からひとつひとつ丁寧に教えていただいた。

それが非常に分かりやすく親切で、教えを乞い、自分でもおっかなびっくり踊ってみながら、私はようやく『神様Disco』のダンスで何が起きてるのかを知った。


今までいくらダンスを見て教わろうとしても、「何回説明されても何が起こってんだかさっぱりわからない」状態がデフォルトだったので、
今回「あっ、これがこうなってそれしてるんだ~!」とわかったのが感動的な体験だった。


なお、わかったからといってうまく踊れるわけではない。これはひとえに私の運動能力の低さゆえです。


レクチャーを受けて振りを覚えたあとは、参加者みんなで無限神様Discoを実施。

無限神様Discoとは、無限リピートされる『神様Disco』にのってひたすら踊り続ける、ほぼスーフィーの修行である。

無限に踊るのが『神様Disco』でよかった、だってこの曲にはダンス休憩タイム*1があるから……


最後は汗だくでヘロヘロになりながら、なんとか振り付けを覚えた。
ラストで全員一列になり、脳をスクラッチする「あのポーズ」をやったときの達成感は半端なかった。
あれは本当に代えがたい体験。


ちなみに筋肉痛は3日治らなかった。

振り付けで感じたヤバさの話

今までいくら考えても理由がわからず、考えるほど泥沼にはまっていった『神様Disco』について、この会で初めてそのヤバさを掴めた気がした。


そう、FISHさんも『Make ya Groove』で言っていたではないか。

それが何かを考えているうちに時経つなら
動き続けて Don't think feel it


『神様Disco』を理解(わか)るために必要なのは、考えることではなく、踊ることだったのだ!!


そしてここからはRADIOFISHオタクの妄言なので、話半分どころか1%くらいで聞いてほしい。なんなら聞かなくてもいい。

「振り付けに対してこういうヤバさを感じた」という話を勝手にしていく。















大丈夫?
ここから先は意味のない錯乱しかないよ















よし。錯乱するか


まず、「無限の力を手に入れるんだ」でスキマス全員が中央に引き寄せられていくのがヤバい。

つまりこれは、無限の力とはすなわちNAKATAであるという観念なのでは?


力を手にしようと求めることは、イカロスが太陽に近づくのと同じように、NAKATAに近づく行為でもあるのだ……


そして「過去に学び明日につなぐ」からの振りも良い。両腕と足を上げ下げするカクカクとしたダンスは、まるで機械兵のよう。

「涅槃の境地へ」でガクガクと振動しながらひざまずいた彼らは、NAKATAの「神様Disco」の一言で動き出す。

なんとなく『天空の城ラピュタ』のロボット兵を連想した。
彼らは王の再臨に立ち会い、正統なる王の言葉で再起動する。


あるいは、「神様Disco」という特殊なコードによって、脳をハッキングされてしまったのかもしれない。そんなイメージを抱いてしまう。

そう考えると、ピロピロ音部分の首と肩を左右に揺らす振り付けや、腕と脚を激しく振るダンスも見え方が変わってくる。


あれ、どことなく動作確認っぽくないですか?
アクション系ゲームで初めて使うキャラの動きを確かめるために、とりあえず色んなボタンやスティックを小刻みに押してみるやつ。


もしかすると、彼らの脳をハッキングしたNAKATAが、スキマスたちを操作しながら同期を図っていたのかもしれない。

頭上でディスクを回し、左手で仏の印を結ぶ「あのポーズ」は、同期が完了して彼らの精神がNAKATAのDiscコレクションの1枚となったことを示しているよな気さえしてくる。


「パッとハッと」からのところは、緩急がついてて指先の動きが優雅でセクシーで、単純に好き。


中盤のNAKATAの語りでは、全員が彼のほうを向いてひざまずく。

聴衆の脳内に直接語りかけながら中央前方に進み出るNAKATAは、来迎という言葉でしか表現できない。もはや御神体をも超越している。


語りのあとのピロピロで、マリオネットのように両腕を吊り下げたあと、胸でヒットを打つところも大好き。

真の意図は神秘のヴェールに包まれているけど、あれは彼らが御神体に心臓を捧げた証だと勝手に思っている(ヤバいファンだな)。


しかもここからバッキバキの盆踊りにつながるの天才じゃない? ディスコサウンドと盆踊りの相性がサイコーなこと、一体どこで知ったんだ。

特にFISHBOYさんの盆踊りは神がかってるので一度は見るべき。円盤を待とう。


そしてやはり、ラストを「あのポーズ」で締めくくってくれるのがアツい。ライブ会場で一緒にやりたい。

みんなで御神体のDiscコレクションの1枚になろう。NAKATAにDJしてもらおうよ。





ここまで読んでくださった皆さん、そして「神様Disco会」の皆さん、本当にありがとうございました。

*1:NAKATAの語り部

ウーロンハイとぼっち飯

言葉の話です

コンビ歴が長くなってくうちに、だんだん相方の習慣や口癖がうつってしまうやつ
あれ、ハチャメチャに良いですよね……

ちなみにオリエンタルラジオですが、
昔あっちゃんに「日々のできごとをメモするといいよ」とすすめられた慎吾さんが素直に日記をつけ始め、
そして10年たった今でも日記を続けているというエピソードがあります。
(ちなみに当の中田敦彦はとっくに日記をやめたらしい)

言葉にもそういうやつがあります。意味が相方に移るやつ(どんな導入だ)




ウーロンハイってなんだ?

ウーロンハイ、Wikipediaの解説は以下。

ウーロンハイ(烏龍ハイ)とはカクテルの一種で、焼酎等のスピリッツをウーロン茶で割ったアルコール飲料。分量(レシピ)には正確な定義はない。まれにウーロンサワーとも呼ばれる。

焼酎のウーロン茶割りだが、愛称として「ウーロンハイ」と呼ばれる。
売り出す当時人気メニューだった酎ハイにあやかって名付けられたとも言われているらしい。



でも考えたらおかしくないですか?

元々、「ハイボール」はウイスキーソーダ割り。
語源はいろいろあるが、一説には炭酸の丸い泡が上がってくる様子を指して名付けられたとも言われる。

ハイボールのベースのお酒をウイスキーから焼酎に変え、日本人向けにしたのが「酎ハイ」=焼酎のソーダ割り。



だとしたら、「ウーロンハイ」はウーロン茶のソーダ割りであるべきじゃないですか?

焼酎のウーロン茶割りは、「酎ロン茶」とかになるべきじゃないですか??


脱退と加入繰り返した結果、もう「ハイ」の要素完全になくなってもうてるやん。
酎ハイで長いことやってきたせいで、ソーダが持ってた「ハイ」が完全に焼酎に伝染してもうてるやん。

なんかそれはそれでアツいですね。グループの歴史的に





いや酎ロン茶はさすがにネーミングがダサい


ぼっち飯ってなんだ?

これも意味が相方にうつってしまったパターンの言葉。

元々、宗派に属さず単独で放浪する僧侶を「独り法師」と呼んだ。
それがなまって「ひとりぼっち」となり、頼る人がいず孤独な状態を指すようになった。

さらにそれが「ぼっち」と略され、一緒に行動してくれる人がいない状態を指す俗語になった。


という経緯によって、「ぼっち飯」は「友達や仲間と一緒にではなく、独りで食事をすること」を意味するらしい。



でも語源考えたら「ぼっち飯」って精進料理であるべきじゃないですか?
法師飯ですよ、だって。

ていうか普通に「独り飯」ではいけなかったのだろうか……
その呼び名では悲しすぎたのだろうか……