蟹を茹でる

カニ @uminosachi_uni の雑記ブログです。好きなもののこと何でも。

マッチョが支配する世界

私は健常者だ。
いまのところは。
この世界では。



マッチョが多数派の世界を、ときどき想像する。
階段が「福祉」として扱われる世界を。

ちょっとでっぱりのある壁の前で、
あるいは2mの崖の上で立ち尽くし、
自力で移動できない自分を、ときどき想像する。

忙しそうなマッチョ駅員に協力してもらって、
数人がかりでロープで引き上げてもらって、
恐縮して何度も礼を言う自分をときどき想像する。

「階段を設置してください」と自分でお願いせねばならない非マッチョの自分を、ときどき想像する。

『ときどき』想像すること自体、私の特権性です。

私は、階段を見るたびにその可能性に直面しなくてもいい。
常にそのことを考えて生きていかなくてもいい。
わざわざ私たちのために階段を設置していただいてありがとうございます、という態度をとらなくてもいい。



階段があることで、私は配慮されている。

誰に手伝ってもらわなくても階段を上れて、下りられる。
急いでいるなら駆け下りられる。
疲れたときはエスカレーターに乗れる。

上ろうと思ったけど何か思い出して引き返せる。
一旦ホームに下りたけど、次の電車まで意外と時間あるから上ってトイレに行ける。

私はそれをまあまあ頻繁にやる。
計画性がないから……



ていうか前日夜に「明日古代エジプト展行こう!」と思い立ったり、
買い物行く予定やったのに当日雨強いから延期したり、
10時に出かけるはずがなぜか片付け始めてて10分遅れで電車へ急いだり、

そういうのも、階段が当たり前にあるおかげでできてる。

こんなに計画性がない私が、そのことで誰にも迷惑をかけない仕組みができている



だから計画性のなさを、
「悪意がある」とか
「ちゃんとする気がない」とか
「傲慢で自分勝手だ」と見なされずに済んでいる。

誰にも責められずに済んでいる。

数日前から計画を立てて関係各所に連絡しなくても、
タクシーにお金を使わなくても、
わきまえて常に感謝を忘れない人格でなくても、出かけられる。

マッチョと同じように自由に出かけられるよう、階段の設置を呼び掛ける活動に時間やお金を割かなくても、最初から階段が使えてた。



相当甘やかされてるな。階段に。
思ってた以上でちょっと引いています。

こんだけ階段に甘やかされてるのに、感謝の気持ちを忘れたことがなかったか? なかったと言えるのか? 私は。



ていうかこれ、身体障害と発達障害重なったらハードモードすぎない?

(検査はしてないけどおそらく)定型発達範囲内の計画性なしうっかり人間でも、階段という配慮がないだけで生活が破綻しかねないのに。

そもそも発達障害の特性である、衝動的な行動や表情・態度によるコミュニケーションの不得意は、「自分勝手、自己中」だの「他人に冷たい、何とも思ってない」と曲解されやすい。

身障者が健常者と同じように自由に動きたいと主張すると、「わがまま」だの「悪意がある」と言われる。

困難が合体してしまう。



まあ態度がでかい人がむかつくってのはあると思うんですよ。
計画性なくて思いつきでふらふら行動するやつも、きっちり気遣い几帳面タイプからしたら腹立つでしょう。

思いつきで行動して親きょうだいからまあまあ怒られてきたからわかる。ごめんね親きょうだい……
たぶん親きょうだいには「この子態度でかいな」とも思われてたかもしれない。接しててそんな感じするもん。

もちろん態度いいに越したことないし、きっちり計画立てて空気読んで動いてどんなイレギュラーが起きても常に機嫌よくいられたら素晴らしいことですよね。



ただ、社会にあらかじめ配慮されているから(健常者だから、定型発達だから)クズがばれてないし誰にも怒られてない人間もいっぱいおるやろなって気はする。

健常者が迷惑をかけないで済む仕組みが世の中に用意されているから、たまたま誰にも迷惑をかけてないだけの人間もきっといる。

そうなってくると、ほんとに態度が悪いから怒られてるのか障害があるから怒られる羽目に陥ったんか、迷いが生じてきます。



人間の性格に責任があるのか、仕組みがうまくいってないのか。二者択一というよりはグラデーションなんかな。

「たまたま迷惑かけてない不器用身勝手人類も全員許しちゃだめです」って考えなら前者を重視するんでしょうし、
「性格に問題あっても迷惑かけてないなら怒られたくないな」って考えなら、迷惑かけないですむ社会の仕組み(または迷惑をかけあうことで成り立つ仕組み)を追究したら良さそうだと、個人的には思います。





以前、右利きの人にアンケート*1をとってみたことがある。
多くは、「右利きで得したことがない」らしかった。

ないの?
ひとつも?
ほんまに?

考えられる可能性はふたつある。

彼らは、右利き用のハサミを使ったことがないのかもしれない。右利き用のカッター、右利き用の包丁も。紙は手でちぎってたか、左利き用の道具を使ってたのかな。あっ裁断機なら利き手あんまり関係ないか。毛筆で漢字を書いたことも、鉛筆で横書き(左から右)の文章を書いたことも、自販機を使ったことも自動改札機を使ったこともないだろう。カウンター席の間隔狭い飲食店で隣の人とひじがぶつからなかったこともなく、複数人でテーブル席につくとき、席順を気にしなかったこともないかもしれない。



または、彼らは「右利きで得した」と認識したことがない。

右利きと左利きの体験の違いは、左利きが不便を感じる形でしか浮き彫りにならないんだと思う。ほとんどは。

それは別に右利きの人が悪いわけではない。
気づかないのは、冷たいからでも自己中心的だからでもない。
たぶん構造的な問題。

おそらく、というか絶対に、わたしにも全然認識できてない「多数派で得した」があるし。

そういうものなんだという……そんな感じです。

*1:Twitterの機能