星座のことロマンチックだと思ってたけど違った
だいぶ前、明石市立天文科学館に遊びに行った。日本の標準子午線が設定されてることでおなじみの施設である。
そこで、あらゆる時計の歴史みたいな展示をしばらく眺めたあと、
私はたぶん生まれて初めて、プラネタリウムを見た。(もしかしたら幼稚園のとき1回行ったかもしれないけど、覚えてないのでノーカン)
Googleマップどころかコンパスもないような時代には、太陽と星だけが方角をつかむ目印だった。
昔の人々は、これらの星の配置を覚え、常に真北に座する北極星を道しるべにしていたらしい。
そんな、古代の人も見ただろう星空を見上げて。
私は思った。
ぜんっぜんどの星が北極星かわからん!!!!!
目の前一面に広がる満天の星。
肉眼で見える星は全部で8000を超えるという。そのうち半分は昼間の空に出ているので、晴れた一面の夜空には、だいたい4000の星が出ている。
その中から、星の配置と、輝度、色だけを頼りに、たったひとつの星を探すのである。
ナレーションで、プラネタリウムの職員さんの解説が入る。
「北極星を探す場合、まず目印になる白鳥座を見つけてから辿っていくといいですよ」
まずその白鳥座を覚えて見つけられる気がせん。
当然、夜空には星を結ぶ線などない。
ただ空に点々と並んだ星たちだけを頼りに、白鳥座を見つけ出さないといけない。
そこから北極星を辿るにも、特定するヒントは位置と輝度のみ。ほとんどの星は形も色も、ほぼ変わらないからだ。
渋谷駅前で、「ハチ公像から6m北にいる」というヒントだけを頼りに、初対面の人と待ち合わせすることを想像してほしい。
しかも「白いシャツにネイビーのジャケット、ベージュのパンツでいます!」と言われてハチ公前に向かったら、そのへんの人全員同じ格好してた、という状況を想像してほしい。
もう絶望である。
見つけられる気がしない。
でも北極星を見つけられないと、道に迷って死ぬ。
星座って、なにかロマンチックなものだとずっと思っていた。
吟遊詩人が焚き火にあたりながら、子どもたちに星座にまつわるロマンチックな物語を語り聞かせる、
そんなイメージを漠然と抱いていた。
でも、たぶん全然違ったと思う。
きっと、旅人たちが、商人が、夜に遠くへ行くすべての人たちが、
迷わず目的地に向かえるように、家に無事たどり着けるように、
星の配置を覚えるために、必死で考えた文脈だったんだと思う。
それほぼ受験勉強の語呂合わせだな。
みんな、それを覚えることに、その後の人生が懸かっているのだ。
だから年号を語呂合わせで覚えるし、
古語の活用形を歌で覚えるし、
数学の公式に変なキャラクターつけて擬人化して覚えるし、
星の配置に物や人のかたちを見出し、星座に物語を結びつけて覚えるのだろう。
もしかしたら、「鳴くようぐいす平安京」だって、未来の人々にとってはめちゃくちゃ風流に聞こえるかもしれない。
試験のために年号を覚えるという行為が必要なくなれば、我々がなぜわざわざ語呂合わせを考えたかなんて、未来の人にはわからなくなるだろう。
「昔の人は平安京ができた年と、平安京の春の朗らかな美しさとを掛けて、『鳴くようぐいす平安京』と讃えました。風流ですね」
とか言われてるかもしれない。
受験生がなんとか知識を詰め込もうと、必死になって考えた語呂合わせも、
「数寄者が茶の湯仲間と考え出した趣深い言葉遊び」みたいなイメージでとらえられるかもしれない。
とにかく、Googleマップのある時代に生まれてよかった。