世界を知り尽くすことはできない
※本記事はnoteから移植したものです。
知ることのない土地のはなし
旅行中、知らない駅や、あるいは高速道路の出口を通過するとき、ふと「たぶんここへ降り立つことはずっとないのだろう」と思ったりする。
きっと私には、一生行かない場所がたくさんあるだろう。
日本だけに限っても、行ったことのある場所より、見も知らぬ土地のほうがよほど多いのだ。
それはどれだけたくさん旅をしても変わらない。むしろ旅をすればするほど、世界の不可知性は強調される。
旅の経験は、土地に対する解像度を細かくするからだ。
「日本一周」「47都道府県全てを訪れて観光する」くらいの粗さでよければ、まだ実現の目はある。
だが、同じ長野県内でも松本と長野では全然別の街だ。
都道府県をめぐっただけでは、日本の土地を知り尽くしたことにはならなそうである。
かといって「日本中の全ての市区町村を訪れる」「全ての集落を観光する」となると、生身の個人にはほぼ不可能だろう。
たとえ凄まじい根気と労力で実現したとして、それでも目にしたことのない場所がいくらでも残る。
同じ町でも、山のほうと団地のあたりと駅前では全く雰囲気が違うなんてことは当たり前にある。町のどこかに訪れただけで、その町の全てを見たことにはならない。
どれだけ知ろうとも、全てを知り尽くすことはできない。
いくら街を訪ね歩いても、どれだけ本を読んでも勉強しても。
私が一生のうちに知りようのない世界がいくらでもある。
一度も行けないまま終わる場所や、出会わない人がいくらでもいる。
それは壮大な絶望感や寂しさをもたらす。
海を眺めて自分がちっぽけに思えてくるのに近い。
一方で、なんかそこには希望もありそうな感じがするのだ。
どれだけ好きなものをコレクションしても全てを集め終わることはないし、どれだけ読書に耽っても読んだことのない本はなくならない。
いくらでも新しく訪ねる街があり、たぶん死ぬまでずっと初めての経験ができる。
自分次第で終わりがないという希望。
いつでもいくらでも胸を貸してくれる、めちゃくちゃ強くて絶対倒せない師匠と組み手しているような気分だ。
征服はできないけど、ちょっとずつなら強くなれるし、新しい発見も毎回ある組み手。
そんな感じで生きていきたい。