蟹を茹でる

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3つのフレーズで読み解く『No.55』

※本記事はnoteから移植し、再編集したものです。


RADIOFISH『No.55』を考察する

はじめに

RADIOFISHの『No.55』を初めて生で見たのは、2018年のワンマンライブ『NEWTON』だった。サビの透き通った歌声と青い光が、胸を貫き人間の内面を照らし出すようだ、と感じたのを覚えている。

僭越ながら本稿では、『No.55』の魅力とテーマ性を3つのフレーズから考察する。

1.反応してしまう絶妙に間

FISHBOY氏は優れた言語感覚を持っている。
語彙の選択、簡潔な状況説明の巧さもさることながら、言語特性を感じとる鋭さは特筆に値する。

各言語にはそれぞれ特性がある。

日本語の特性のひとつが、比較的自由な語順をとれること。特に口語では顕著だ。例えば「彼に鍵を渡すのは、私でなくてよいだろう」を「良くない? 鍵あいつに渡すの私じゃなくて」と入れ替えても意味が通じる。そしてこのような語順は、くだけた会話の中ではそれほど珍しくない。
これは、格(文のなかでの単語の役割)を格助詞によって示す日本語の性質のためだ。反対に現代英語だと、文における単語の役割を語順で示すため、語順はかなり固定されてしまう。

『No.55』は日本語の語順の自由度を活かし、随所で歌詞に遊びを作っている。
「反応してしまう絶妙に間」はその一例だ。果たしてこれは絶妙に反応してしまう間なのか、それとも絶妙に間があるから反応してしまうのか? 「絶妙に」がどちらに掛かっているか、特定できない構造だ。
これを「絶妙に反応してしまう間」、または「反応してしまう絶妙な間」とすれば一意に定まるところ、意図的に複数の解釈ができる幅を残したのではないか。

「即特筆すべき」からの一群の歌詞も同様だ。隠さないのは個性なのか、周囲を巻き込むことなのか。しっかりとした指なのか、しっかりと纏うのか、しっかりと意志を持つのか。
複数の解釈が可能な語順になっていて、言葉同士のつながりが複線的である。この複線化によって、高速な思考の奔流をそのまま歌詞にしたかのようなスピード感がもたらされている。


一方で、彼の歌詞には英語の特長も活かされている。
英語は日本語に比べ、同じメロディに多くの情報量を付与できる。これは、英語と日本語でリズムの取り方、単語の区切り方が異なるためだ。英語では音節の単位で区切るのに対し、日本語では拍の単位で区切る。
例えば「true」は1音節だが、「トゥルー」は3拍、「真実」なら4拍と数える。歌の場合、英語なら1つの音符に1音節を乗せられるが、日本語では1拍(1音)しか乗らない。不馴れな人が洋楽を歌うと口の動きが追い付かないのは、本来1音節のところに複数の拍を詰め込もうとするせいでもある。
『No.55』は英語詞を要所に用いて短いフレーズに十分な情報を込めつつ、流れるようになめらかなリズムを生み出している。日本語詞のはっきりとした硬質なリズムとは対照的だ。

言語によるリズム取り方の違いが、このような効果的な使い分けを可能にしている。これらが意図的なものか感覚的なものかは明らかでないにせよ、彼が洗練されたリズム感と言語感覚を持つことは疑いようがない。

2.それはまるで花のような

『No.55』で印象的なのが、両手のひらを頭上で交互に押し出す振り付け。両手を広げたポーズは、おそらくタイトルの由来にもなっている。
この振り付けの直前にある歌詞、「それはまるで花のような」に注目したい。

このフレーズは、FISHBOY氏の人間観を反映しているのではないだろうか。
彼の歌詞には自らの感覚や心情を省みる内向性と、他者の視線を意識して行動する外向性の両方が感じられる。このような人間の内省と行動の関係は、植物の根と花の関係によく似ている。

根は地中に隠れて他者からは見えない。しかし確かに存在し、植物の生存に必須の活動を行っている。地中の水分や養分、酸素を吸い上げて全体に行き渡らせ、植物の体を倒れないよう支えたり、栄養を貯蔵したりする役割を持つ。
花は個性的でよく目立ち、その鮮やかさや香りで人々を魅了する。だが美しい花が形成されるのは健全な根があってこそで、丈夫な根を伴わない花は倒れやすく、しおれやすい。

人間にも同じことが言える。
外から直接覗くことはできないが、心は知識・体験・センスといった養分を吸収し、蓄えている。
そういった養分、つまり教養や経験に支えられてこそ、初期衝動は個性的で魅力的な形で表出する。
その意味では、表現は生き様を示す行為だと言っていいかもしれない。内的なものに全く基づかない表現は、どれほど華やかでも「小手先」と見なされることがある。

蕾が行く先を知るのは、それが成長という時間の流れの中にあり、その源流には根があるからだ。どんな花が咲くかは、どんな風に根を張り、そこから茎や葉を伸ばし、どのように蕾を形成したかで決まっている。これまでの成長過程を知る蕾は、先に待つ未来をすでに知っている。

人間もまた、ひとつの流れの中にある。
舞台が整ったなら、あとは今まで経た過程を、得てきたものを示すほかない。ここにおいて結果を決めるのは自分自身だ。その意味では、敵は自分の中にある。
ライブはまさに、彼らがこれまでの過程を懸けて、実力を賭けて挑む舞台だろう。華やかさの奥には、たくさんの時間が隠されている。これまでの彼らの人生に裏打ちされたエンターテイメントだから、ファンは夢中になる。

ステージ上の彼らに向けて掲げられた両手は、まるで向日葵のようだ。舞台で歌い踊る彼らにファンが手のひらを向けるのは、彼らがファンにとっての太陽だから。

3.electroな気分でplanet rockin

FISHBOY氏のダンスへの熱意、そしてオールドスクールへの愛情が表れているのがこのフレーズだ。
ここで言及されている曲は、Afrika Bambaataa『Planet Rock』だと思われる。

Afrika Bambaataaといえばエレクトロファンクの先駆けであり、ヒップホップ黎明期の3大DJに数えられる偉大な人物だ。彼は「ヒップホップ」の名付け親でもある。
『Planet Rock』は1982年に発表された代表曲で、ヒップホップシーンに大きな影響を与え、オールドスクールの名曲として今でも親しまれている。(知ったような口を利いたが、Wikipediaの受け売り)
往年の名曲へのリスペクトをさらりと示すところが粋だ。オールドスクールに関する造詣があってこそ生まれたフレーズだろう。

そしてこれに続く歌詞で描かれるのが、ディープな趣味が共感されないゆえの葛藤である。理解されないコンプレックスと、多数派に迎合しない自分への満足感。相反する感情が読み取れる。

この、古き良きものに対する敬意とマイノリティ意識は、『O.I.S. ~オルスクセクシィー~』にも通じるテーマだ。複数の作品で取り上げるほど、FISHBOYその人にとって本質的な問題なのだろう。


余談だが先述の『Planet Rock』には、「イチ、二、サン、シ」と日本語でコールする歌詞がある。『No.55』におけるカウントダウンは、もしかするとFISHBOY氏なりのオマージュかもしれない。