蟹を茹でる

カニ @uminosachi_uni の雑記ブログです。好きなもののこと何でも。

いてる、見てみる、やってやる

大阪弁の『いてる/いてへん』って言い回しが好きです。


意味的には標準語の『居る/居ない』と同義なのですが、わざわざ『居る』に『いる』を重ね着してるのが面白い。
インナーのタンクトップの上にトップスのタンクトップ着てる人みたいだ。

思うに、前の『居る』は「そこに存在する」ことを表しており、
後ろの『いる』は補助動詞として「その状態が今も継続している」ことを表しているのだろう。

そこに今も存在し続けている、その状態を指す言葉が『いてる』なのだ、きっと。

『いてへん』にいたっては、『居る』に『いない』をぶつけているから面白い。打ち消しあって対消滅しそうだ。


大阪弁だけでなく、標準語にも似た構造の言い回しがある。
『見てみる』、そして『やってやる』。

一見意味が重複しているように思えるが、実際には前の『見る』『やる』と後ろの『みる』『やる』は異なる意味で使われている。

「視覚で捉える、確認する」の『見る』と、
「試しに~する」の『みる』。

「何かをする、成し遂げる」の『やる』と、
恩着せがましさを示したり、行為の覚悟を強調するときに使われる『やる』。


違う意味の言葉なんだから組み合わさっても全然おかしくないのだが、ぱっと見だと同じ言葉のように見える。
もしくは同じ言葉を続けているはずなのに、よくよく見れば全く違う。
その構造のややこしさが面白い。


その構造は、お好み焼きをおかずにご飯を食べることにも似ているかもしれない。

ある見方によればそれは「炭水化物をおかずに炭水化物を食べる」、己の尾を噛む蛇のごとき行為である。

しかし別の見方によれば「ふんわり食感とソースのしょっぱさが特徴のおかずを、もっちりとして素朴な甘みの白米と食べる」行為であり、
ふたつは全く別物なのだから、おかずとご飯の関係でも何らおかしくない。


いずれも直感的には違和感を覚えてしまうが、理屈としては通っている。


今、そんなワードの発展形として考え出したのが、
『お亡くなりにならなくなる』という言い回しである。

『ない』が2つ、『なる』が3つあるが、語が持つ機能はそれぞれ異なっている。
ゆえに、若干の違和感はあるものの、言葉として意味は通る。


ただ、これを自然に使えるシチュエーションが、「目上の人が不死身化したとき」くらいしかないのが残念なところだ。
日の目を浴びるまで、まだ数百年はかかりそうな表現である。