言葉は面白い。
だから言語学がけっこう好きだ。大学でちょっと講義受けていた程度で、詳しくはないけれど。
講義で印象的だったトピックはいくつかある。そのなかで最も記憶に残っているのは、「オノマトペ」の話。
オノマトペとは、擬音語と擬態語の総称。キラキラ、ふわふわ、バチバチ、など。日本語はオノマトペが豊富な言語だと言われている。
オノマトペは、とても感覚的な言葉だ。ふわふわ、という言葉には、なんとも言えぬふわふわ感がある。それは、ぼごぼご、という言葉には決して無いものだ。日本語を知らない人に、ふわふわのタオルとぼごぼごのタオルを提示して、Which towel is fuwa-fuwa? と聞けば、ほぼ正確にふわふわのタオルを選べるのではないか。それほど、身体的な感覚とつながった言葉だと思う。そんなところが、かわいくて好きだ。
これに似た実験で、「ブーバキキ効果」というのが実証されている。言葉と視覚的印象の関連性を示した実験だ。
実験参加者は、上のようなふたつの図形を提示される。実験者はこんな質問をする。
「ある国の言葉では、この2種のうち片方をブーバ、もう片方をキキと呼ぶ。どちらがブーバでどちらがキキだと思うか?」
すると実験参加者のほとんどはふにょふにょした曲線の図形がブーバで、ギザギザした尖った図形がキキだと思うと答えた。
ちなみにこれは心理学者が行った実験。
言語学において、言語の恣意性は基本原理だ。つまり、言語は置き換え可能な記号である。あの4足歩行でしつけると人の言うことをよく聞くかわいい哺乳類は、「犬」と呼んでも「dog」と呼んでも構わない。「Hunt」でも「chien」でも何でもいい。とにかく、あの人の身近にいる哺乳類を、ある特定の音声のつながりで呼ぶ、と決めてしまえば事足りる。そしてその音声のつながりで呼び続ければよい。
基本的には言語とはそういうものであるが、オノマトペや「ブーバキキ効果」はその例外といえる。
そんなオノマトペについて。国語学の講師が解説してくれた内容が、私にとっては印象的だった。
それは、「日常で頻繁に使用する動詞や名詞も、元はオノマトペから来ている」というもの。
例えば「旗」。実はこの言葉、「ぱたぱた」という擬音語が由来と考えられている。同様に、「光る」は「ぴかぴか」から転じたと言われている。
言われてみれば、「膨らむ」は「ぷくぷく」に、「尖る」は「とげとげ」に通じるところがある。「泥」なんて完全に「ドロドロ」だ。
Twitterでも、お風呂に入って温まり、ほかほかになることを「ほかる」と言ったり、もふもふした生き物を撫で回すことを「もふる」と言ったりする。そういうことが、昔の人々のあいだでも行われたのかもしれない。想像してみると、なんだか可愛いらしい。
オノマトペとは異なるが、身体的な感覚が、言葉の由来になっている例がある。
それが、「面白い」である。
あなたは、「面白い」という言葉の由来を、聞いたことがあるだろうか。顔を白塗りにして道化を演じていたからとか、そういうバカ殿的な話ではない。(私は高校生まで本当に面=顔が白いが語源だと思っていた)
今では楽しいとか滑稽であるさま、又は興味深いさまを表す言葉だが、古語「面白し」においては「趣がある、素晴らしい」が最頻出の意味である。その他に「興味深い」とか「風変わりだ」などの意味がある。
古語辞典を読んで初めて知ったのだが、この言葉は『目の前がぱっと明るくなる感じを表す』のが原義だと言われている。
これを知ったとき、大変興奮した。
読んだ人に「こいつは古語で突然興奮する変態だ」と思われないように説明しよう。
私が興奮したのは、ばらばらだった知識が自分のなかでひとつに繋がったからだ。
まず、「面白し」の原義は、「目の前がぱっと明るくなる感じ」である。そして意味は、素晴らしい・興味深い・風変わり、である。
なぜ「目の前がぱっと明るくなる感じ」が、素晴らしいとか興味深いことを指す言葉になったのか? それは、素晴らしいものや興味深いものを目の前にすると、ヒトは実際に「目の前がぱっと明るくな」ったと感じるからだ。
その秘密はヒトの眼球に隠されている。
生物の授業で習ったかと思うが、ヒトは眼に入ってくる光の量を、瞳孔の大きさを変えることで調整している。暗い所ではよく見えるよう、少しでも光を拾おうと瞳孔を開くし、反対に明るい場所では強い光から目を守るため、瞳孔を絞る。
しかし瞳孔の大きさは、周囲の明るさだけに対応しているわけではない。ヒトが興味のあるものを見るとき、対象がよりよく見えるように、瞳孔が開くのだ。
これこそが、秘密の正体だ。
人が素晴らしいものや興味深いものを目にしたとき、瞳孔が開いて入ってくる光量が上がることで、「目の前がぱっと明るくなる感じ」がする。だから、「面白い」はそういった意味を持つようになったのだ。「面白い」はヒトの身体的な反応に基づいた、なんとも理にかなった言葉だった。
ちなみに「好きな人がキラキラとまぶしく見える」現象も、同じ原理で起こっていると思われる。気持ちだけの問題ではなく、実際に光量が増えてまぶしいのだ。
遠いところにあった知識と知識がつながるのは、私に喜びをもたらす体験だ。例えるなら、「推し芸人と推しアイドルが実はプライベートで友達だった」に近い。あの人とあの人にそんな関係性が、という意外性の喜びである。
しかも、国語と英語、地理と歴史、あるいは物理と数学の間で知識がつながりあうのは想定の範囲内だが(それでも気付けると嬉しい)、まさか古文と生物の知識が実はつながっていたなんて、これを知って興奮せずにはいられようか。いやない。
ただでさえ古文には、現代の言葉と意味が変わってしまっている難しさがある。読み解くための法則はあるが、自然言語ゆえに複雑で掴みにくい。却って理系学生のほうが苦手意識を抱き、「古文は法則性のない、暗記とフィーリングで乗り切る科目」と勘違いしてしまいがちだ。
だからこそ、カオスに思われがちな古文にも、科学的な視点から読み解ける糸口があると気付き、嬉しく感じた。古語にも科学的知見とつながるポイントがあり、身体的感覚を手がかりに理解できる側面もある。
こういう気付きが、少しでも誰かの古文への苦手意識を小さくできたらよい、と思う。
言葉は人々が生活の中で使うコミュニケーションで、自然言語ゆえに定義は完全ではない。曖昧であやふやで、捉えがたく感じられるかもしれない。だが、生活の中で使われるツールだからこそ、言葉は人々の感覚に密接に結び付いている。
だから、言葉は面白い。
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