蟹を茹でる

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白ヤギさんは実質『山月記』の李徴

童謡『やぎさんゆうびん』をご存知だろうか。
黒ヤギが手紙を食べちゃった旨を手紙にしたためるんだけど、相手の白ヤギも手紙を食べちゃって無限ループに陥るやつです。

たぶん、この曲で生まれて初めて無限ループの概念に触れる人も多いのでは。
「このまま2匹は永遠に読まれることのない手紙を送り合い続け、結果郵便局がちょっと儲かるんだろうな……」と思わせる、ちょっと不思議な歌詞。

というわけで今回は、「『やぎさんゆうびん』のやぎさんは、実質『山月記』の李徴である」という話をします。


白ヤギさんは実質李徴

相手の手紙を食べてしまうヤギ

やぎさんゆうびん』の歌詞はこちらから
http://j-lyric.net/artist/a00126c/l001090.html

白ヤギさんのお手紙を、黒ヤギさんが読まずに食べちゃうところから始まるストーリー。
この童謡、聞いたときにどうしても引っ掛かる疑問点がありません?

そうです、何で自分が書いた手紙は喰わへんねんという疑問点です。


まあヤギが紙を食べちゃうのはわかる。
実際ヤギって紙を食べるイメージあるし(そのイメージつけた戦犯はこの曲だと思うけど)。
このヤギが獣として描かれているなら、大事な手紙を食欲衝動のままに食べてしまってもおかしくない。

でもこのヤギたち、手紙を自分で書けるだけの知能を持ち合わせているんですよ。
識字ヤギなんです。

理性もそれなりにある。
その証拠に、紙を食べることなく文章をしたため、封筒に入れ、郵便ポストだか配達人だかに投函できている。


なら、何故相手の手紙は読まずに食べてしまうのか?
相手のことなんてどうでもいいと思ってるのか?

でも、そんな単純な話ではない。本当に相手の手紙がどうでもいいなら、「さっきの手紙のご用事は?」なんて手紙をわざわざ出す必要がない。
いくら器用でも、ヤギのあの蹄で手紙を書くのは、結構大変なはずなのだ。

つまり、白ヤギも黒ヤギも、互いの手紙のことはそれなりに大事に思っているのだ。なのに食べてしまう。食べるのを止められない。

ここから導かれる結論はひとつ。
つまり白ヤギも黒ヤギも、獣性と理性が混じりあった状態にあるということだ。


獣性と理性の狭間で

同じように、獣性と理性のせめぎ合いに苦しめられた、有名なキャラクターがいる。
山月記』の主人公、李徴である。

彼はある夜虎になってしまい、突然その身に押し付けられた運命に恐れおののく。
李徴は虎になった日のことを、以下のように語る。

自分は直ぐに死を想うた。しかし、その時、眼の前を一匹の兎が駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中の人間は忽ち姿を消した。再び自分の中の人間が目を覚ました時、自分の口は兎の血に塗れ、あたりには兎の毛が散らばっていた。これが虎としての最初の経験であった。それ以来今までにどんな所行をし続けて来たか、それは到底語るに忍びない。

やぎさんゆうびん』のヤギたちは、ちょうどこの李徴と同様の経験をしているのではないだろうか?

ヤギの中には、人間に似た理性とともに、衝動的なヤギ性が同居している。それが「相手からの手紙」という獲物を目にした瞬間、理性は消え去り、自分の中のヤギが覚醒する。
再び自分の中の人間が目を覚ました時、ヤギの口は文字のインクにまみれ、あたりには紙屑が散らばっていただろう。
きっとヤギたちは、そんな自分の獣性に、絶望を感じたに違いない。

続いて李徴は、こう語っている。

ただ、一日の中に必ず数時間は、人間の心が還って来る。そういう時には、曾ての日と同じく、人語も操れれば、複雑な思考にも堪え得るし、経書の章句を誦んずることも出来る。その人間の心で、虎としての己の残虐な行いのあとを見、己の運命をふりかえる時が、最も情なく、恐しく、憤ろしい。

ヤギにも、人間的な知性が、そして理性的な心が還ってくる時間があるに違いない。
そういう時には、人語も操れれば、複雑な思考も可能で、だからこそ文字を使って手紙を書けるのだろう。
その人間の心で、ヤギとしての己の行いのあとを見、己の運命をふりかえるのだろう。
そして、制御のきかない自分を情けなく、恐ろしく思いながら、そんな自分に強い怒りを感じながら、震える蹄で懸命に文字を連ねるのだろう。

「さっきの てがみの ごようじ なあに」と。


ヤギの性情とは何だったのか

李徴は自らが虎になってしまった理由について、このようにも述べている。

人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。

やぎさんゆうびん』の2匹のヤギもまた、かつては猛獣使いであり。その猛獣にあたる性情が、ヤギだったのだろう。
そう考えれば、何故ヤギたちが自分の書いた手紙は食べないのか、なんとなくわかりそうな気がする。

やはり、李徴の言葉にそのヒントがあると思う。

飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕とすのだ。

李徴は旧友・袁參に出会ったとき、自作の漢詩を書き取り、後世に伝えるよう願った。
李徴を失って路頭に迷っているはずの、妻子のことを頼むより先に。


ヤギたちが、相手の手紙を衝動的に食べてしまうのも、自分の書いた手紙は食べないのも、それと似た理由があるんじゃないか。人間の心が戻ったときに手紙を書いているから、だけではないと思う。
彼らは、相手の手紙をそれなりに思ってはいても、やはり、自分の手紙のほうが大事なのだと思う。

自分の書いた手紙を残したい。相手に手紙を読ませたい。自分の気持ちを聞いてほしい。
その気持ちが先に来てしまう。
相手の手紙を読みたい気持ちは、嘘ではないけれど、自分の中のヤギ性には勝てない。

それこそが、ヤギと化した彼らが内に抱えていた、性情だったのかもしれない。彼らはそれを飼い慣らしきれずに、ヤギへと姿を変えてしまったのかもしれない。


ヤギに贈るソリューション

つまり、ヤギをヤギたらしめる性情とは、承認欲求だったのかも。
自分に注目してほしい、自分の作ったものを見てほしい、書いたものを読んでほしい。他の誰かが作ったものが、注目と称賛を集めているのがくやしい。食べてしまいたい。食べて、もう誰もそれを見られなくしてしまいたい。

そんな衝動的な承認欲求は、程度の差こそあれど、創作する人なら誰もが持ちうる気持ちだと思う。
というか欲求を持っていることは、何も悪いことではないのだ。
人間は誰でも猛獣使いだと李徴が言ったように、誰もが猛獣を心のうちに飼っている。それは虎かもしれないし、ヤギかもしれないし、ヒヨコかもしれない。そんな自分の性情を許容して、猛獣を飼い慣らせたら、それで構わないのだと思う。

もし猛獣が馬だったら、そいつの背に乗って、目的地まで走っていけるかもしれないし。
たまには自分の心の子猫と目一杯じゃれてみたり、ナマケモノと同じ速度で生活してみるのもいいかもしれない。



とりあえずそこのヤギ2匹は、LINEを導入しろ。
承認欲求はTwitterはてなブログで満たせ。

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